古文漢文の話

最近ろくにネットを見回れていないので、どこが発端なのか知らないけれど、古文漢文不要論がまた話題になっているらしい。文句を付けたいのもわからなくはないけど、実際のところいらないよね。いらないというのは、まったく無用だというわけではないけれど、必要性は乏しいよねという意味。もちろんどんな知識であれ無いよりはあったほうが良い。古文漢文だって学ばないより学んだほうが良いに決まっている。でも、そうじゃないんだ。限られた時間の中で何を学ばせるべきか、取捨選択が必要となる。その中で古文漢文の優先度は果たしてそんなに高いんだろうかという話だ。私はそんなに高くないと思っている。

たぶん、学校教育での古文漢文の授業の意義は3つくらいだろう。


・一般教養として古文法を知っているべき

・明治〜戦前の文語文を読む力を身につけるべき

・和歌・漢詩を鑑賞できる力を身につけるべき


古典の内容やその歴史的意義は文学史が扱うべき領域であって、古文漢文の領域ではない。文科省の分類ではそれも国語科古典の領域だとしても、では文学史は必要だというだけであり、古文漢文のすべてが必要だということには結びつかないし、何より文学史を学ぶためにその作品をいちいち読み下していくのはあまりに学習効率が悪い。身につけるべきはごくわずかなのに、古文漢文を必修科目として学ぶことはあまりに効率が悪いというのが私の主な主張なのだ。

身につけるべきは、わずかな文法と語彙、文学史。それさえあれば一般教養として困らないし、明治文語文も読むことができる。私が文語文にこだわりを置くのは、それが法文書として現在も利用されていることが少なくなく、また他分野でも学術文書として参照すべきものが文語文であることが多いからだ。

一方で古典の物語文を読める必要はないと思っている。物語というのは趣味で読むものであり、必ずしもその技術を身につけなければならないものではないと考える。古典であればなおさらだ。ごく一部の限られた専門職以外で、古典の物語文を読む必要というものに直面することはない。趣味で読むとしても、現代語訳でなく古文のまま読む人がどれだけいるか。おそらく100人いれば5〜6人はあさきゆめみしくらい読んでいるだろう。谷崎潤一郎訳を読んだ人も2〜3人くらいいるだろうし、その他の訳を読んだ人だって1〜2人はいるかもしれない。だけど、原文で源氏物語を読んだ人がいるだろうか。まったくいないことはないだろうが、100人程度の中では見つけ出しにくい。物語文を読む力を身につける必要性は、それほどに乏しい。

詩歌になると少し事情が異なる。物語は現代語訳で楽しむことができるが、詩歌ではそれができないからだ。また、詩歌においては、現代でも少なからず古文法が用いられており、古典を読むのでなくても役に立つかもしれない。だから詩歌を鑑賞できる力を身につけるということはある程度意義がある。だけど、だ。現在の古文漢文教育が、あまりその方向には熱心でない。数少ない古文漢文を学ぶ意義ではあるが、意義があったとしてもニーズがないのかもしれない。

というわけで、私は古文漢文の授業に現在のように重きを置いて、多大なる時間をかける必要はないと考えている。それだけの時間があるなら、現代文法をちゃんとやれよ。現代文でも形容詞の活用がク活用とシク活用の2種類があると思い込んでドヤってる馬鹿がネットでは観測される。過去の助動詞「た」を過去形と言うやつ本当滅んでくれ。論理とか修辞とかも学校教育で扱いたい。大鏡なんか読み下している場合じゃないんだよ。